[日本演劇のなかのロシア]

           (上世博及)

           19世紀後半の西欧では、従来の約束事やスター中心の座頭制度の演劇から、演技の真実性、芸術性を求めアンサンブルを重要視する近代演劇運動が始まっていたが、1898年、旗揚げしたばかりのモスクワ芸術座がチェーホフ作「かもめ」を上演し、これが「世界の演劇史における最も素晴らしい新展開のひとつ」となってリアリズム演劇の確立に繋がり近代演劇の基盤を固めることとなる。モスクワ芸術座創立者の一人であるスタニスラフスキーが1938年に亡くなるまで生涯にわたって研究し続けた俳優訓練法のスタニスラフスキーシステムは世界の演劇界に多大な影響を及ぼし、現在に至るまでロシアのみならず欧米の演劇学校でも俳優教育のスタンダードとなっている。また、モスクワ芸術座旗揚げメンバーのメイエルホリドは、その後自然主義的演劇論に反旗を翻し、独自の演劇理論ビオメハニカを提唱して前衛的表現法を模索するが、彼の活動もまた世界の演劇に大きな影響を与えている。

            明治時代の文明開化によって日本の舞台芸術も近代化が推し進められていく中で誕生した新劇にも、一番大きな影響を与えているのがロシア演劇であろう。1909年(明治42年)、島村抱月と坪内逍遥が文芸協会、二世市川左団次と小山内薫が自由劇場を立ち上げ日本の近代演劇が始まるが、それが花開き新劇運動の拠点となるのが、1924年(大正13年)に土方与志と小山内薫が創設した築地小劇場である。小山内は1910年に自由劇場でゴーリキーの「どん底(夜の宿)」を自ら翻訳・演出しているが、1912年にモスクワで芸術座の「どん底」を鑑賞して大感激し、舞台を克明に記録して自らの公演でモスクワ芸術座の演出をそのまま再現しようとした。またこのモスクワ訪問でスタニスラフスキーとも会談しており、この時の体験が築地小劇場での活動に大きく影響している。土方も、1922年にパリでモスクワ芸術座の公演、翌年にモスクワでメイエルホリドの公演などを観劇し、その影響が築地小劇場開設につながる。当時としては世界最先端の舞台機構を持った演劇専用劇場で、モスクワ芸術座を模倣した運営、活動を行おうとしていた。何本かの作品を日替わりで上演するレパートリー制、優れた海外演劇の紹介、国内の作家の創作劇、装置・照明・音響・衣装といった舞台部の確立、世界の演劇事情の研究、そして俳優教育など、築地小劇場は当時の新劇のまさに中心となった。

           それ以前にも日本とロシアには別の演劇交流の事実がある。1886年にはまだアマチュア時代のスタニスラフスキーの邸宅に日本の軽業師たちが滞在し、「ミカド」というオペレッタのために所作を指導している。1902年には貞奴を擁する川上一座がペテルブルクで公演を行いロシア皇帝から褒美を受けているし、1909年にはロダンの彫刻のモデルとして有名な花子もモスクワで公演を行いスタニスラフスキーやチェーホフ夫人のクニッペルなどと交流を持っている。新劇では、島村抱月が文芸協会を離れ、1913年に女優松井須磨子とともに立ち上げた芸術座でトルストイ原作の「復活」を上演し、劇中歌の「カチューシャの唄」を大ヒットさせたり、1915年にはウラジオストクでロシアの劇団と合同公演を行ったりとロシアとの関わりのある活動はしていたが、ロシアの演劇文化や演劇理論を色濃く反映させたのはやはり築地小劇場であり、のちに分裂したり戦災で劇場が焼失したりしたが、築地小劇場で活動したメンバーたちが戦中戦後に立ち上げた文学座、俳優座、民藝などの劇団は、現在に至るまで日本の演劇界を支える重要な存在である。

           スタニスラフスキーの演劇理論であるスタニスラフスキーシステムは、1934年に社会主義リアリズムの芸術様式を体現するための訓練方法としてソヴィエト政府公認となり、これ以降ロシアの演劇学校の俳優教育スタンダードとなるが、この時はまだ彼の理論は書籍化されていなかった。アメリカの出版社の依頼でまず英語版が1936年に出版され、その2年後の1938年にロシア語版が出版される。日本語版は英語版から山田肇が翻訳し、1943年に「俳優修業」として第1部、1954年に第2部が出版され、これが戦後の新劇界の教科書になっていた。1968年から71年にかけてドイツ語版から千田是也が「俳優の仕事」として翻訳しているが、ロシア語原版からの完訳が出版されるのは2008,9年である。(「俳優の仕事」全三部、堀江新二・岩田貢・浦雅春・安達紀子訳)

           1958年12月、「俳優修業」のお手本であるモスクワ芸術座が初来日して「桜の園」「三人姉妹」「どん底」「検察官」などを上演し、新劇人たちは小山内がモスクワで受けた感動をやっと体験することができる。その後、モスクワ芸術座は1968年、1988年にも日本公演を行っている。60年代、70年代は政治的背景からロシア(ソヴィエト)との交流が停滞するが、80年、90年代になると日本の様々な団体がロシアの劇団を招聘し公演を行うようになる。ソヴィエト演劇界の重鎮G・トフストノーゴフ率いるレニングラード・ボリショイドラマ劇場(83年、88年)、L・ドージンのレニングラード・マールイドラマ劇場(88年)、モスクワの帝室劇場だったマールイ劇場(90年、93年)、ユーゴザーパド劇場(90年)、タガンカ劇場(93年、99年)、タバコフ劇場(93年)、オムスクドラマ劇場(98年)、レンコム劇場(99年)などなど。また、60年代に寺山修司、唐十郎などとともに新劇とは違った新たな演劇運動を担い、その独自の演劇理論が世界的にも高く評価されている鈴木忠志は、82年から現在に至るまで富山県利賀村で毎年開催している世界演劇祭「利賀フェスティバル」や、1995年から2007年まで芸術監督を務めた静岡県舞台芸術センターの企画に数多くのロシアの劇団を招聘している。ちなみに鈴木は2003年に国際スタニスラフスキー財団よりスタニスラフスキー賞を受賞している。

           80年代、90年代になるとロシアから演出家を招聘し制作する舞台公演が増えてくる。劇団東演はソヴィエトの代表的演出家だったA・エフロスを招聘し、81年に「桜の園」、82年に「ナターシャ」を公演し、90年代にはユーゴザーパド劇場の演出家V・ベリャコーヴィチと彼の劇団のロシア人俳優たちとの合同公演(「ロミオとジュリエット」「どん底」など)を制作し話題になった。俳優座はV・フォーキンを招聘し、87年に「去年の夏、チュリームスクで」、89年に「白痴」を上演。栗原小巻は自身のプロデュース公演「恋愛論」に名優S・ユルスキーを演出に迎えている。ユルスキーは98年に劇団銅鑼でも「ヨーン・ガヴリエル・ボルクマン」を演出。ウラジオストク室内ドラマ劇場のL・アニシモフは劇団民藝演出部所属の清水柳一と「夢、クレムリンであなたと」を91年に共同演出し、93年の再演で文化庁芸術祭賞を受賞した。東京芸術座は98年にオムスクドラマ劇場のV・ペトロフの演出で「どん底」を公演し、前年にはペトロフ演出のオムスクドラマ劇場の「砂の女」に出演した東京芸術座の女優荒木かずほが、ロシアで最高の舞台芸術賞であるゴールデンマスク賞で最優秀女優賞を受賞し、ペトロフ自身も最優秀演出家賞を受賞している。

           1999年、日露相互の演劇交流を行うことで日本演劇の「質」の向上を図ることを目的とした日露演劇交流促進会議、のちの日露演劇会議が発足し、日本の演劇界で体系化されなかった俳優教育に世界ではスタンダードとなっているロシアの優れた演劇教育ソフトを導入しようとする活動が始まり、ロシアの主要な演劇大学の学長や教授たちを招いて多くの実践的なワークショップ、セミナー、講演を企画する。中でもサンクトペテルブルク演劇大学S・チェルカスキー教授、モスクワ芸術座付属演劇大学教授S・シェンタリンスキー教授は日露演劇会議が招聘したことがきっかけで、他の演劇団体が俳優育成のためにそれぞれを招聘し今も継続的にワークショップを行っている。日露演劇会議以外にも2000年以降は多くの劇団などがロシアから指導者を招き、それまで英米経由だったスタニスラフスキーシステムをロシアの演劇人から直に学ぼうとする動きが活発になるが、注目すべきは2000年3月、4月にシアターχが開催したL・アニシモフの2か月間の俳優のためのワークショップであろう。一時的に来日し短期のワークショップを行う他のロシアの演劇人と比べ、アニシモフはこのワークショップがきっかけとなって日本に腰を据えて地道に真の演劇芸術家を育てようとウラジオストクから東京に活動拠点を移す。2004年には東京ノーヴイ・レパートリーシアターを設立して、現在に至るまで俳優育成と創造活動を精力的に続けている。

           ロシアの政治体制が変わりソヴィエト時代に比べ留学がかなり容易になったことで演劇留学をする日本人も増えてきているが、短期留学あるいは研修が多く、4年ないし5年の正規の演劇大学の教育課程を卒業した者は非常に少ない。戦前だと1933年に築地小劇場の創設者だった土方与志が、当時のプロレタリア演劇の中心人物だった佐野碩とともにソヴィエトに亡命し、モスクワにて土方は市立革命劇場で、佐野は国立メイエルホリド劇場で演出研究生となっている。二人は4年間に渡りメイエルホリドの指導を直接受けるが、これは知る限り、日本人で初めてロシア演劇を現地で直接学び、創造活動の現場を体験した事例である。1937年に二人はソヴィエト国外追放となるが、佐野は出国後メキシコに亡命して現地で演劇学校を創設し、ビオメハニカとスタニスラフスキーシステムを融合させる試みをしながら多くの演劇人を育て「メキシコ演劇の父」となる。土方はフランスに渡るも1941年に帰国後すぐに逮捕され終戦まで牢獄に入れられるが、出獄後は前進座や舞台芸術学院で演劇活動を再開し、後進の指導にあたった。戦後だと70年代にモスクワのロシア舞台芸術大学演出学科で正規の学生として5年間、スタニスラフスキー最後の弟子であるM・クネーベリに師事した和田豊がいる。彼は卒業後フランス国立高等演劇学校で教鞭をとっていたが、80年代には日本で演出などの活動をし、1994年には「本当に役立つ演劇教室」を立ち上げ日本において体系的な俳優教育システムを確立しようと試みている。この教室の卒業生たちと2000年には劇団CAT21を立ち上げ、ロシアを中心とした海外の演出家たちを呼んで公演活動を行っていたが、5年後には解散して、和田もフランスへ戻ってしまった。解散後、メンバーの一人だった杉山剛志は2008年にモスクワに渡り、約2年間モスソヴィエト劇場にて演出の勉強をしたのち帰国、演劇集団ア・ラ・プラスを立ち上げ、和田を引き継いだ活動を続けている。また、サンクトペテルブルク演劇大学演出学科卒業の西村洋一、ロシア舞台芸術大学俳優科・演出学科卒業の丸地亜矢、ライキン高等舞台芸術大学俳優学科・マールイ劇場付属シェープキン演劇大学大学院卒業の横尾圭亮など、ロシアの演劇学校で学んできた日本人が現在帰国して様々な現場で指導にあたっている。ロシアから直輸入の演劇教育が国内でも少しずつ広がりを見せており、日本の演劇文化の発展につながるものと期待する。

           なお、2006年からスタートしたロシア文化フェスティバルIN JAPANでは、ロシア国立ボルコフ記念劇場、サンクトペテルブルク・コミッサルジェフスカヤ記念劇場、シュ―キン演劇大学劇団、モスクワ子ども人形劇場、サンクトペテルブルク・ボリショイドラマ劇場、サハリン人形劇場などを招聘し日本公演を開催している。

主要参考文献: 

         武田清「新劇とロシア演劇」(而立書房、2012年)

         水品春樹「新劇去来」(ダヴィッド社、昭和46年)

       マイヤ・コバヒゼ 荒井雅子訳「ロシアの演劇」(生活ジャーナル、2013年)

         日露演劇会議ホームページ http://www.jrtf.jp/

         小劇場レヴューマガジン ワンダーランド https://www.wonderlands.jp/archives/26557/