――中国・四国地方の日本海沿岸には日露戦争のロシア水兵の墓が目立ち、日ロ首脳会談のおこなわれた山口県の長門市の海岸沿いのロシア人の墓は会談前に整備されています。
「ワルツ」
「フィンの思い出」
(ワルツ)
作曲=レフ・トルストイ
ピアノ=レーラ・アウエルバッハ
(フィンの思い出)
作曲=ティホン・フレンニコフ
指揮=E.ハチャトゥリアン
国立交響楽団映画音楽演奏メンバー
島根県江津市の和木公民館には日露戦争時の露国イルティッシュ号の遺品が展示され、そこから徒歩で10分くらいのところにイルティッシュ号慰霊碑が建っています。イルティッシュ号はドイツよりロシアが購入した石炭運送船で、乗組員251人でバルティック艦隊に加わりました。この特務艦の積荷は、石炭はもちろん、他の戦艦の消化綿、硫酸、塩酸の多量のガラス瓶、水兵靴、士官用の長靴、約100頭の雄牛、豚、鶏、がちょう等でした。対馬沖の戦闘で流弾のため浸水甚だしく、1905年(明治38)5月航行不能に陥りました。小さな漁村は大騒ぎでしたが、寒さと恐怖でおののく遭難者235名を村人は救助したのです。ロシアは対戦国でしたが、傷の手当をし炊き出しを行い人間どうしのあたたかい触れ合いがありました。
広島=吉浦八幡神社(シベリア鉄道建設参加従事者)
広島県呉市吉浦町の八幡神社の唐獅子台座には「奉献 明治二十九年十一月在露西亜」と建立発起人6人の氏名、126人の氏名が刻まれています。この唐獅子は、シベリア鉄道建設工事のため石工として働いていた人、また無事に帰ってきた人たちが寄進したものです。シベリア鉄道が起工されたのは1891年(明治24)ですが、明治29年に広島移民会社が1500人の鉄道工事労働者を輸送しました。石工、大工、土木人夫、鍛冶職などです。呉の吉浦からは船で下関へ、ここからウラジオストクに行き、チタ、イルクーツクと奥地に送られました。明治27年頃から33年頃まで1期、36年頃までを2期としてのべ700人の吉浦石工が出稼ぎに行ったと言います。1901年(明治34)12月31日現在のシベリア在留邦人数は4326人に達しています。
日本海に浮かぶ隠岐ノ島にも日本とロシアのあたたかい結びつきを語り伝える史跡が守られ続けています。西郷町(さいごうまち)総合運動公園に至る道沿いに、十字型の石碑が建てられ「日本海海戦 露国軍人墓 隠岐国在郷軍人会建之」と刻まれている墓碑があります。日露戦争の日本海海戦では多くの犠牲者が出、島には遺体が漂着しました。島人はこれを憐れみ、在郷軍人会は真心を尽くして埋葬しました。現在も老人会の人々による墓の清掃奉仕が続いています。
当時のステッセル将軍は、乃木大将にアラビア産名馬を贈りました。その馬は日本の産馬改良に大きく貢献した後、晩年を隠岐で過ごしました。ステッセルのスをとって「寿号」と名付けられていた名馬は海士町(あまちょう)崎地区に引き取られ4年間過ごし、1919年に生涯を終えました。崎地区住民によって「名馬寿号記念碑」が建立され、日露の絆は島民の人情に守られています。
日本における社会主義の先駆者としての片山潜(1859~1933)は、幕末の1859年(安政6)12月に岡山県久米南町の庄屋に生まれ、岡山師範学校に入学翌年退学して上京、1884年友人とアメリカへ渡ります。働きながら、グリンネル大学やイェール神学校で英語とキリスト教を学び、1896年帰国しました。日本で最初の労働組合の設立に尽力、1901年(明治34)日本で最初の社会主義政党である社会民主党に幸徳秋水らと入党しました。1904年(明治37)、片山はアムステルダムで開かれた第二インターナショナル大会でロシアの代表プレハーノフと非戦を誓う握手を交わしました。片山は日本、米国で社会主義・労働運動を組織し、ロシア革命後の1921年(大正10)12月にモスクワ入りしました。コミンテルンの指導者として活動しました。片山潜記念館は生誕130周年のときに出生地の久米南町に設立されました。
『花渡る海』の漂流民・久蔵の墓(川尻町)
広島県川尻町は、作家吉村昭が『花渡る海』『北天の星』でくわしく紹介しているように、江戸時代にロシアに漂流した久蔵が帰国後、不遇な生涯を過ごした町です。久蔵はロシアで凍傷にかかり、現地の医者に世話になりました。当時の日本ではただ死を待つだけの伝染病であった天然痘のワクチン=牛痘をロシアの医者からもらい、帰国にさいして日本に持ち込みました。牛痘をはじめこれらの医学的技術・知識は江戸幕府の官僚たちには理解できず、取り調べのあと没収され、当時の鎖国政策のために闇に葬られたのです。久蔵から聞き取りした『魯斉亜国漂流聞書』が残されており、和露単語集とともに、ロシア歌謡の歌詞も記録されています。
ベルリンでドイツ語の月刊貿易誌『東亜』を発行するなどジャーナリストとして活躍した玉井喜作は、1892年(明治25)11月下関を出発、釜山を経てウラジオストクに行き、旅費をつくるために労働、翌年5月にウラジオストクからシベリア横断の旅に出ます。途中、イルクーツクで金がなくなり3カ月半ほど乞食の様な生活をし、茶を運ぶ隊商に潜り込みトムスクへ向かう。寒さ、凍傷、飢えとたたかいながら、トムスクから汽車に乗り、ベルリンに到着したのは1894年(明治27)2月のことでした。後に『シベリア隊商紀行』をベルリンで出版しています。玉井の日記やノートは山口県光市の文化センターに保管されており、生家や墓も残っています。
ロシア・ジャ-ナリストとして著名な大庭柯公(景秋)は、1872年(明治5)山口県下関市の長府(ちょうふ)町に生まれました。この城下町長府は、平家滅亡の壇ノ浦に近く、明治36年に建てられた長府毛利邸で知られます。その毛利邸から2分ほど下ると大庭傳七・柯公邸のあった場所があり、長府まちづくり協議会と観光協会の解説碑が設置されています。柯公は1896年(明治29)25歳でウラジオストクに渡り、ロシア商館の通訳、日露戦争には参謀本部付通訳官として従軍、1905年(明治38)帰国して静岡俘虜収容所に勤めニコライ・ラッセルを知ります。35才~40才まで「大阪毎日」「東京日日新聞社」に勤め、欧州大戦勃発と同時に、「東京朝日新聞社」へ入り、露軍にしたがって戦線に赴き、日本への通信によって新聞記者としての名を馳せました。ペトログラード滞在中にロシア十月革命に際会し、ホットなニュースを送っています。48才で「読売新聞社」へ入り、1921年(大正10)満州よりチタを経由して革命後の新ロシア視察のためモスクワ入りするが、モスクワ到着の電報を最後に消息不明として今日まで扱われてきました。1992年(平成4)10月21日付で名誉回復がされたが、出獄後の行方などは依然として不明のままです。
トルストイと親交のある小西増太郎ゆかりの旧野崎家住宅(倉敷市児島)
小西増太郎(1842~1940)は、7歳の頃から野崎家に預けられ青年時代を過ごしました。野崎家は当時岡山県随一の事業家の家で、当主野崎武吉郎は塩田王と言われ、貴族院議員でした。増太郎は20歳のときに神学とロシア語の勉強を志し、26歳のときにロシアへ留学、キエフの神学校、モスクワ大学で学びました。1909年、10年トルストイと再会、帰国後、ニコライ神学校教授、野崎家の仕事に従事、そして京都大学で教鞭に立ちました。1927年(昭和2)、逓信大臣の久原房之助の通訳でスターリンと会談するなど激動の人生の縮図を野崎家の竜王開館の展示物にみてとることができます。
二葉亭四迷や昇曙夢の先駆者の後に、米川正夫、中村白葉らがロシア文学の翻訳を旺盛に行い、トルストイ全集、ドストエフスキイ全集などロシア作家の全集が次々に企画刊行され、体系的にロシア文学が紹介されるようになりました。米川と中村は、大正から昭和半ばにかけて、ドストエフスキイとトルストイの二大文豪のすべての作品を完訳した大きな功績があります。戦後、早稲田大学に露文科が創設されると米川は講師に迎えられ、1951年(昭和26)から定年まで教授、日本ロシア文学会会長を長く努めました。昭和41年、食道がんによって死去、享年74歳でした。
日露友好のかけ橋碑(松山市)
日露戦争終了までにのべ6000人の捕虜兵が松山捕虜収容所に送りこまれてきましたが、うち傷病兵は4000人いました。気候温暖で温泉地であることが傷病兵の多さに関係したものとみられます。松山の人々は、博愛の精神で看護治療にあたり、ロシア兵から感謝されていました。98名の方が亡くなり、ワシーリ-・ボイスマン大佐もその一人です。松山のロシア人墓地は、祖国の方向むきに98柱の墓標が整然と並び、慰霊祭、教会祭がおこなわれ、地元の中学生、老人会、墓地保存会が清掃を継続しています。
黒島伝治(1898~1943)は、小豆島で零細な自作農の長男として生まれましたが、20歳で文学を志して上京、1919年(大正8)早稲田大学予科(選科)に入り、同年12月入隊、1921年5月シベリア出兵に従軍、肺結核を悪化させ、1922年(大正11)7月除隊となりました。このシベリア出兵の体験から一連の「シベリアもの」という作品群が創作されます。「橇」「渦巻ける烏の群」の代表作をはじめ、「リャーリャとマル―シャ」「雪のシベリア」「穴」「パルチザン・ウォルコフ」「氷河」「栗本の負傷」などがあり、作品の随所に勉強したロシア語が散見されます。シベリア出兵はソビエト革命干渉戦争で各国連合国の全く理不尽な侵略行為でしかなかったが、日本は死者3000人、戦費7億円を費やしました。黒島は1943年(昭和18)10月17日44歳で生涯を閉じましたが、彼のシベリア作品は自己の体験から来る反戦文学であったといえます。小豆島に記念文学碑があります。
中国地方には岡山県の倉敷市に柳井原ハリストス正教会があり、山下りんの聖像数点が所蔵されています。四国には徳島ハリストス正教会・聖神降臨聖堂があり、1904年(明治37)日露戦争のとき丸亀の捕虜収容所に徳島の真木神父が出張していました。
四国には松山のロシア人墓地のほかに丸亀にもあります。善通寺市の海岸寺には「日露戦役俘虜収容所記念松」石碑があります。中国地方は日本海に面しているために当時は各地に日露戦争のロシア兵の遺体が流れ着いたことが伝えられています。江津、浜田、長門、下関の露人墓地が知られています。とくに、2016年(平成28)の日露首脳会談が山口県で行われたために、長門市のロシア兵墓地が整備されました。墓の前方1000キロ先には遠くロシア沿海州のウラジオストクがあります。
幕末対露交渉団の一員として長崎、下田に随行した洋学の大家・箕作阮甫(岡山市)
1853年(嘉永6)長崎に来航したプチャーチンらのロシア応接使に、川路聖謨に随行を求められた箕作阮甫は、津山藩松平家の侍医でした。幕府の藩書調所の首席教授で、日露和親条約など安政五カ国条約に関わりました。阮甫の随行者には函館の五稜郭を建造した武田斐三郎もいました。プチャーチンとの長崎応接は12月14日西役所での顔合わせのあと正式交渉が6回行われ、パルラダ号の訪問も行い、交渉山場では川路の後ろに待機して対応しました。『西征紀行』は118日に及ぶ箕作阮甫の貴重な手記です。1854年(安政1)下田でも再び随行を求められ、11月1日交歓行事、2日ディアナ号訪問、3日会談と続くが、大地震と津波でディアナ号が沈没するという異常事態にもかかわらず、12月21日伊豆下田の長楽寺で和親条約に調印しました。この時に、箕作阮甫は宿舎が押し流され、持ち物全部を失いましたがその中には約30冊の蘭書が含まれていました。川路は箕作と以前から交流しており、翻訳者としてだけでなく、洋学者としての学識を信頼し助言を期待してのものでした。彼は、日本最初の医学雑誌『泰西名医彙講』をはじめ、『和蘭文典』『水蒸船説略』など訳述書は99部160冊に及び、医学・語学・西洋史・兵学・宗教学など多岐にわたり、日本で初めて「地質学」という用語を使用しました。1866年(慶応2)、樺太の境界交渉のための小出秀美箱館奉行の使節団に随員として阮甫の養子箕作秋坪が露都に出向いています。又、阮甫の曽孫の作曲家箕作秋吉は鳩山一郎会長の日ソ協会設立総会で常任理事に就任しています。