――近畿地方には注目された歴史上の出来事に関係する史跡があります。江戸時代にペテルブルグで女帝エカテリーナⅡ世に拝謁して日本に帰国した大黒屋光太夫、明治政府を震撼させたニコライ皇太子襲撃事件、バレンタインデーにチョコレートを流行させたモロゾフの店など話題に事欠きません。

ピアノ組曲《四季》より「2月 冬おくりの祭」

 

作曲=ピョートル・チャイコフスキー

指揮=吉岡弘行

東京バラライカ・アンサンブル

鈴鹿=エカテリーナ2世と謁見した大黒屋光太夫記念館・銅像

          井上靖の小説(1966)や大映映画(1992)で知られる『おろしや国粋夢譚(こくすいむたん)』の主人公、大黒屋光太夫は、伊勢の白子(しろこ)(鈴鹿市)の港を拠点とした廻船の船頭でした。1782年(天明2)、江戸へ向かう神昌丸が嵐にあい、ロシア領のアリューシャン列島に漂着しました。帝都ペテルブルグで女帝エカテリーナ2世に謁見して帰国を願い出て、約9年後の1792年(寛政4)に根室に上陸することができました。帰国後は、桂川甫周による聞き取り『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』が残され、蘭学者との交流で蘭学の発展に寄与しました。これまで鈴鹿市若松小学校や若松公民館に設けられていた大黒屋光太夫資料室は、2005年(平成17)11月13日に光太夫の生家近くに大黒屋光太夫記念館として開設されました。光太夫の肖像や直筆の墨書、手紙の複製、漂流記、ロシアから持ち帰った器物などが展示されています。

露国皇太子遭難之地碑(大津市)

          1891年(明治24)5月11日、日本を訪問中のロシア皇太子ニコライが琵琶湖遊覧の帰り、護衛の巡査津田三蔵に斬りつけられました。幸い皇太子は額に2か所の傷を負っただけで命に別条はなく、数日後には帰国の途につきました。当時の日本は弱小国であり、相手はロシア帝国とあって政府は震え上がり、明治天皇が京都へ駆けつけて見舞うなど日本中が大騒ぎでした。政府はロシアに対して謝罪の意を明らかにするため、津田巡査を死刑にするべく裁判所に圧力を加えました。裁判を担当した大審院院長の児島惟謙(これかた)は法治主義順守の立場から政府の圧力をはねのけ、法定刑内で「無期徒刑」の判決を下しました。大津市京町通の札の辻交差点を東に入ると「此附近露国皇太子遭難之地」と刻まれた碑が建っています。

ニコライ・ロシア皇太子らロシア皇族利用の京都ホテル(京都市)

          現・京都ホテルオークラは、1888年(明治21)「常盤ホテル」として開業、1894年(明治27)「京都ホテル」に改称、翌年3月3日から京都ホテルとして営業開始、2002年(平成14)に「京都ホテルオークラ」となりました。約130年の歴史の最大のハイライトは、1891年(明治24)5月10日ロシア皇太子ニコライ親王殿下が来館、5月11日同殿下が大津市内で襲われ負傷、いわゆる大津事件が起こり、5月13日明治天皇がロシア皇太子を見舞うために来館しました。1895年(明治29)ロシア皇太子の宿泊室を永久保存することが決定されました(のち、この部屋は安養寺に移転されました)。1896年(明治29)ロシア海軍中将アレキセップ、同大尉カンワイフ、同軍医カノローの3氏来館、1898年(明治31)ロシアのキリル親王殿下が来館、1901年(明治34)ロシアの皇族アレクサンダー・ウオルコンスキー親王、同妃殿下が来館するなど明治時代のロシア帝国要人は頻繁に京都ホテルを利用していました。

           日露戦争時、日本国内に29の収容所で71,947人のロシア兵が捕虜生活を送りました。京都では1905年3月から翌年1月まで、1711人の将兵が東福寺、本圀寺(ほんこくじ)、妙法院、智積院(ちしゃくいん)の4カ寺に収容されました。当時、東福寺霊運院で修行していた12歳の寺子は彼らと親しく交流しました。捕虜から習ったロシア語の日常会話をカタカナにしたノートが残っています。霊運院にはロシアの硬貨、捕虜の写真、故郷の住宅図、タンバリン、ヴァイオリン、バラライカ、シンバルなどの手づくり楽器などが展示されています。

ニコライ・ラッセルの墓碑(横川霊園=京都市)

         日露戦争中、神戸を拠点に帝政ロシア打倒の運動に奔走した元ナロードニキの亡命ロシア人、ニコライ・ラッセルは、白ロシアの貴族の子に生まれ、ルーマニアで医師となりこの地の社会主義運動に関わり国外に追放され、アメリカに渡りハワイで上院議長を務めます。日露戦争の際に、日本抑留ロシア人捕虜への革命工作のため来日し、1905年(明治386月23日から11月1日までの130日あまりの間に、29ある収容所のうち12の収容所を訪れて政治宣伝文書を配布し集会を開きました。のち、神戸から長崎へ移動し、革命新聞「ボーリャ」の創刊に尽力、大原ナツノとの間に安光を生みました。比叡山・延暦寺(えんりゃくじ)の横川中堂近くの横川霊園に大原家の墓があり、ラッセルは妻ナツノ、二男安光とともに眠っています。

サモワール会の福田精斎の墓碑(京都市)

          京都のサモワール会の最初の会合は1913年8月10日、岡崎公園商品陳列所構内の尾張屋で、薬種商・福田精斎、千總店員・名和野秀太郎、楽器店経営者・岩田喜八ら6名でした。生業をもつ3人のロシア好きの面々が20数年にわたり、来日観光団の歓迎、講演会、祝賀会、留学生を囲む会、ロシア語研究会など日露の相互理解に尽くした活動を展開したことは当時としては異色のできごとです。なぜならば、治安維持法の下で、徐々に社会情勢は厳しくなり、満州事変、国際連盟脱退、国家総動員法制定という動きの中でたびたび中断させられるなかで継続してきたからです。JR山陰線の花園駅にほど近い五位山・法金剛院に、「にこらい ぺとろういっち 福田と其の一族」と刻まれた墓碑があります。サモワール会を主導し、洗礼を受けた福田精斎の墓碑です。

ロシア人墓地(泉大津・福知山・神戸) 

          大阪府泉大津市の「泉大津市・和泉市組合墓地」には、89基の日露戦争のロシア兵捕虜の墓があります。ここに眠る人々は浜寺捕虜収容所にいた陸海軍の下級兵でした。霊を慰めるために旅順港でともに戦った戦友たちが石造の記念碑を建てました。その台座には世界五大宗教のシンボルが刻まれています。京都府福知山市堀の平和墓地の片隅にロシア兵捕虜の墓石がひっそりと建っています。当初、陸軍墓地には4基のロシア兵の墓がありましたが現在は1基だけです。ロシア語墓誌には「第37師団第146ツアリーツィン歩兵連隊第7中隊上等兵・神の僕ニコライ・バラゥーソフの屍ここに埋葬さる 1904年12月15日死亡 享年28歳」とあります。日露戦争の墓ではない神戸外国人墓地は、1866年(慶応2)からの歴史をもっており、現在の墓地に移転・統合が完了したのは昭和36年でした。ここには日本で初のチョコレート菓子製造で知られるフョードル・モロゾフ、ワレンチン・モロゾフ父子などが眠っている約2700柱が建立されています。

          1769年(明和6)、淡路島郡志本村(五色町)の貧しい農民の長男として生まれた高田屋嘉兵衛は13歳の頃から商いを習いました。クナシリ島とエトロフ島間に新航路を開き、箱館、根室などの開発に力を注ぎました。ゴロヴニン事件では解決のために尽力し、日露紛争を未然に防いだ民間外交の偉大な先駆者です。五色町の邸宅跡の高田屋嘉兵衛翁記念館には望遠鏡、手紙、商印、当時のエトロフ島の鳥瞰図、硯などがあります。高田屋嘉兵衛記念公園の菜の花ホールには辰悦丸を再現した模型などの資料が保存されています。日露友好の像は、3人のロシア人彫刻家の作品で台石はクナシリ島から運ばれてきたものです。

          1850年(嘉永3)1月9日、紀伊国日高郡の和泉屋庄右衛門船、天寿丸13人は江戸からの帰航中、伊豆沖で遭難し漂流50日余りの後、アメリカ捕鯨船ヘンリー・ニ―ランド号に救助され、6人はロシア捕鯨船マレンゴ号に移されました。米捕鯨船ニムロッド号に救助された5人はハワイ、上海を経て長崎に帰ったのが1851年12月でした。カムチャツカのペトロパブロフスクに上陸した8人は、アヤン、シトカを経てメンシコフ号で1852年6月24日伊豆下田に入港、江戸へ護送され、1853年(嘉永6)1月に故郷に帰ることができました。漂流帰国者12人はその後船乗り稼業は禁じられ、苗字(みょうじ)帯刀(たいとう)を許され、幕府の異国船識別の任務を与えられました。JR御坊駅から徒歩5分ほどの薗新町に、二軒の元廻船問屋があります。漂流民の子孫で「天寿丸絵図」「漂流記写」「見聞絵図」を所有しており、市文化財となっています。

舞鶴引揚記念館(舞鶴市)

         舞鶴は、かつては我が国有数の軍港で、日本海軍の要衝の地として知られましたが、第二次世界大戦終結後は、海外在留同胞の引き揚げ港として大きな役割を果たしました。舞鶴引揚記念館は、「再び繰り返してはならない戦争の悲劇、悲惨な引揚げの史実を後世に伝えるため」と謳い、1988年(昭和63)4月に開館しました。ソ連抑留者のナホトカからの引揚げは、1946年(昭和21)12月8日に計5000人を乗せて入港した大久丸・恵山丸に始まり、56年12月26日入港の興安丸(長期抑留者1025人)で完了しました。その引揚者総数は45万3850人に及びました(1947年に約2万人がナホトカから函館港に引揚)。

ロマノフ家ゆかりのオルゴール所蔵・堀江オルゴール館(西宮市) 

          西宮市の苦楽園に、ロマノフ家のものを含め約300台のアンティーク・オルゴールを所蔵する堀江オルゴール館が1993年(平成5)3月に開館されました。ロマノフ家ゆかりの2台のオルゴールが注目のマトです。金のモールで飾られた漆塗りの黒檀のキャビネットにセーブル焼の陶板3枚がはめこまれた1878年制作、シリンダー式オルゴールはロシア皇帝アレクサンドル3世がスイスに特注し、皇太子ニコライ10歳の誕生祝いに贈ったとされるものです。もう一つはニコライ最愛の皇妃アレクサンドラの優しい女性的曲線を描く茶色のディスク・オルゴールです。

チョコレートのモロゾフの店(神戸市)

          ロシア革命のときに亡命し、ハルビン、シアトルなどを経て、1926年(大正15)神戸で洋菓子店を開業、1931年(昭和6)に神戸モロゾフ製菓(現在のモロゾフ(株))の共同経営者となり、のちに同社と別れてコスモポリタン製菓の創業者となったフョードル・モロゾフと息子のワレンチン・モロゾフ。贈り物を楽しむ、新しい習慣を育てようとしてきたモロゾフ(株)が1936年(昭和11)神戸で発行されていた英字新聞「ジャパン・アドバタイザー」に「バレンタインデーにチョコレートを贈ろう」という広告を出したのが、「バレンタインにチョコレートを」の始まりです。

ハリストス正教会(大阪、京都) 

          大阪ハリストス正教会には大小あわせて6つの鐘楼の鐘があり、これは1910年にモスクワのイオアン、アンドレエイチ、コレスニコフ兄によって大阪天満の聖堂に献納されたものです。山下りんの「機密の晩餐」「生神女マリア」が掲げられています。京都ハリストス正教会・生神女福音聖堂は日本正教会西日本主教教区の主教座聖堂であり、日本正教会の現存する聖堂・会堂のうち、ロシア宗務局承認設計図譜に基づく最古の聖堂です。

ストラヴィンスキーのNHK交響楽団との共演(大阪・東京) 

           20世紀最大の作曲家の一人、イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882~1971)は、1959年(昭和34)の4月5日から5月8日まで来日し、鎌倉の大仏、歌舞伎座、箱根、京都・三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)、龍安寺(りょうあんじ)、石山寺(いしやまでら)、修学院離宮、高山寺、桂離宮、三宝院、平等院、二条城、南禅寺、能・文楽、神戸、奈良、皇居雅楽と精力的に廻り、日本趣味が本格的なものであることを証明しました。この滞在中に、5月1日大阪フェスティバルホール、3日・7日東京・日比谷公会堂で、NHK交響楽団のコンサートで指揮しました。「夜鶯の唄」「ペトルーシュカ」(抜粋)「花火」「火の鳥」(1945年版)が演奏されました。来日時に、武満徹(たけみつとおる)の「弦楽のためのレクイエム」を絶賛し武満の評価が国内外で上昇するなど、日本の現代音楽に影響を与えました。

 

神戸市の異人館、パラスティン邸はロシアの貿易商の洋館(神戸市中央区)

                   神戸市のF・M・パラシューチンとA・N・パラシューチナ夫妻が住んでいた洋館は、明治末にロシア貿易商の邸宅として建てられました。現在、パラスティン邸は、喫茶店として営業され、ウエディングパーティーなどに利用されています。

播磨町(東本庄村)の水主ら16名、

カムチャツカに漂流、6名帰還寛紀丸

                   文化7年(1810年)11月22日、摂州御影浦(現神戸市東灘区)を出港した加納屋十兵衛の寛紀丸(歓喜丸・1600石)は乗組員16名が漂流し三か月後の文化8年2月2日ロシア領カムチャツカ半島に漂着した。9名が死亡、6名が文化9年8月にクナシリ島へ送還され、松前、江戸を経て帰国した。一行と共に帰還した中川五郎次は種痘を普及した人物として知られ、日本人7名と軍艦ディアーナ号船長ゴロウヴニンらとの交換接衝の舞台ともなっている。高田屋嘉兵衛の捕虜事件ともこの漂流民たちは大きくかかわっていたのである。なお、水主の一人、久蔵は広島県呉市川尻出身。凍傷のため脚の手術を受けたので遅れて文化10年9月26日に箱館に帰着。種痘菌を持ち帰ったが藩当局は知識がなく相手にしなかったという。史料は、「御領分播州加古郡古宮組東本庄村水主清五郎忠五郎安王郎嘉蔵魯西亜属嶋江漂流之処此度帰着ニ付吟味口書」「摂州御影村与茂難船物語」および「怒涛を越えた男たちー漂流史料研究集」など。